V-1. “A Capital City at the Margins: Quezon City and Urbanization in theTwentieth-Century Philippines” (令和1年度 FY2019 新規)


  • 研究代表者:Michael D. Pante(アテネオデマニラ大学・歴史学部)

研究概要

本研究はケソン市の誕生と短命ではあったが首都としての地位を担っていた時期の状況について、歴史地理学的に論じる。1939 年に計画都市として制定されてから1948 年に国家の首都としての地位を獲得し、最終的に首都の地位を失い動乱のマルコス政権期(1965–86)に至るまでのケソン市領の出現と発展を追う。この過程の中で、都市の進展の陰に隠れながらも重要な機能を果たしていたファクターについて、市のステークホルダーたちに与えた影響を検討することで明らかにする。

詳細

今日、メトロ・マニラの一部を成すケソン市は、まぎれもなく政治経済的にフィリピンの中核に位置している。マニラ首都圏(National Capital Region:NCR)とも呼ばれるメトロ・マニラは一枚岩ではなく、16 の都市と1 つの町から構成される。首都圏内では地方自治体が時に協同し、時に競合しあっている。ケソン市のように突出した力を持つ例も少なからずあるが、政治経済的権力は首都圏を構成する都市間において分散している。ケソン市は巨大な人口と領域、莫大な歳入、そして国立大学のメインキャンパスと下院議事堂を有している。無益な試みであるにかかわらず、首都をマニラから再びケソン市に戻そうという意見が今日に至るまで存続するほどに、ケソン市は重要な政治経済的権力を行使している。このような提案は、もちろん、かつてケソン市が首都であったという歴史に端を発している。ケソン市の首都構想は1939 年のケソン市の誕生とともに始まっている。議論の余地はあるかもしれないが、これはフィリピン史において前例のない国家計画のプロジェクトとして存在している。20 世紀のかなりの部分において、ケソン市は公定ナショナリズムの空間的象徴であった。東南アジア諸国同様に急速な都市化をフィリピン国家が経験している現在、フィリピンの重要な都市の背後において企図されていたビジョンとその実現に失敗した試みを歴史として論じ出版することで、申請者は学術的貢献を目指している。本書は、都市計画、郊外化、首都周縁地域としての発展、大都市行政、そしてインフォーマル居住地の生成といった経験を持つケソン市の事例から、類似した発展を経てきた他地域の理解にも有益となる歴史的な考察を行う。

 


Manuel Quezon(左から4 人目にて着席)京都の木屋町にて、Tomás Morató(左から2 人目にて起立)とともに。1938 年

1949 年の基本計画に基づくQuezon City の一般設計